調査旅行の1コマ 松崎整道先生(カゴ) 初代竹谷先生(右)
「倉廩実ちて則ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱を知る」
これは中国春秋時代、斉の宰相であった管仲の言葉である。
意訳すれば、経済的なゆとりができれば、人々は礼儀道徳に関心を持ち、 名誉と恥辱をわきまえるといった内容である。 しかるに大東亜戦争の敗戦で焦土と化したわが国は、戦後めざましい経済発展を遂げるも、 昨今の世相を見るにかの管仲も驚嘆する有様である。
いまだ政・経・官の不正は底をつかず、止まるところを知らない。 残忍な殺人事件は日常茶飯事起こり、いじめや登校拒否など教育病理はその打開策を見つけられず、 教育の現場は崩壊寸前である。 つまりこれらの社会病理は、「法に触れていなければ許される」という、 戦後民主主義の誤った解釈がその要因の一つであろう。 弁護士の中坊公平氏のいう「法律は最低限の基準であり、 法律の上にモラルがある」は誠にうがった意見である。
また宗教教育の怠りも大きな要因に値する。神を敬い祖先を崇拝するわが国古来の美徳は、 ややもすれば右傾化と見られ、無宗教こそがリベラルであるという勘違いの教育が、 昨今の無表情、無感動の子どもを養成してきたのである。 各学校、各地域、また各家庭での宗教的な行事の実践により、敬神崇祖、 ひいては長幼の序を涵養するものである。 さらには家庭内での神棚、仏壇の礼拝や墓参も重要な道徳教育にあたいする。
ことさらお墓というものは、個人の家庭のみならず、 地域や国家の存続にもかかわる重要な建造物であると聞く。 なぜ死者の霊を慰め、祭祀を執り行う墓所がそんなに大事なのかは、 あまたの書籍によりうかがい知ることができるが、 ここに徳風会の創始者である故松崎整道師の講演会を基に編集された『お墓と家運』を紹介する。
昭和の初期に森江書店から発行されたものであるが、 墓石の祀り方と家運の関係を統計的にあらわした初めての書籍ではないかと考えられる。 インドのタージ=マハールや、中国・明朝の陵墓、あるいはわが国の仁徳天皇陵などの巨大陵墓から、 名もなき民の土饅頭まで、お墓は様々な歴史や人生模様を映し出しており、 その形態(相)をとおして王朝の行く末から一般の民草の一生までも見通している。
さらに祭祀を通して人としての歩むべき道とは何かを、師は繰り返し繰り返し、しかしながら決して語気を荒げることなく、切々と説かれていることに気づかれるだろう。
ここに師の研究の深さと、人格の尊さを知るに到る。末筆ながら松崎整道師並びに、平成18年11月30日に逝去された二代目竹谷聰進師の菩提を弔い、はしがきにかえる。
昔の墓についてお話しする前に墓と関係があるわが国のお寺の起こりについて少しお話をしておきます。
さて墓とは何であるかと申しますと、これを学問的に説明いたしますと、 日本語のいわゆる「ハテカ」または「ハテル」、 すなわち終焉(しゅうえん)の場所の意味であり、 漢字の「墓」もまた終焉の土地の意味で、 人の屍(しかばね)を処置した所の意味であります。 その文字を見ても墓という文字は、土の上に人が横たわり、それに日が当たり、草をかむらしてあります。
およそこの世界において、人が造ったもので最も規模が大きく、 また荘厳なものは何であるかといえば、お墓であります。また最も規模が小さく、また簡単なものは何であるかといえば、これもまたお墓なのです。
試みに今、その大きな事例を二三(にさん)、わが国建築学の権威者である伊東博士の著書から引用しますと
わが国の仁徳天皇の百舌鳥(もずの)耳(みみ)原中(はらのなかの)陵(みささぎ)は、 東西三百間(545346m)、南北四百間(727.28m)で、総面積は十余万坪に達し、 人工の造営物でこれに勝る大規模のものは世界にはないそうです。
またインドのアグラ市にあるタージ・マハールは、モグール(ムガール)朝のシャー・ジャハン帝の愛妃の墓であるが、 その秀麗壮観なことは有名であり、その工費は現在の物価に換算すれば少なくとも二億円(昭和五年当時)に達し、 これが世界で最も高価な建築物だそうです。
また、エジプトのピラミッドは、約五千年前にクフ王が築造した墓で、 その底面が核七百七十尺、高さが四百八十尺で、これに要した石材は、約七千万立方尺で、 その重量は十四億貫目で、すなわちこれが、世界第一の重量を有する建築物であります。
支那北京の北にある明の長陵は、永楽帝の墓であるが,その参道の入り口なる牌楼から、 陵まで実に十五支那里と称せられ、その間に大紅門、碑亭、華表、石獣、石人、隆恩門、隆恩殿、明楼などが 立ち並んだありさまは、実に世界第一の大袈裟なる配置であるという。(当時の一支那里は現在の何キロかは調査中)
日本でも徳川家康の墓、すなわち日光東照宮の美観は、日本第一であるばかりか、 いまや世界の驚異をもって称せられるものである。
さらに小さいものの例を挙げれば,子どもが亡くなったが、棺を買う資力がないため、 空の蜜柑箱を手に入れ、これに納めて葬った。このくらい規模が小さく簡単なものはありません。 むしろ真にあっけないほどであります。
このように世界の建築物の中で最小な物は墓であり、また同時に最大なものも墓です。 また、一国のうちで最も荘厳な建築物が墓であると同時に、最も簡素なものもまた墓なのです。
墓のことを考えると興味がつぎつぎ湧いて尽きなく、同時に一種の神秘さを感じざるをえません。
今回はからずもご縁が出来まして、このように多数の諸君にお目にかかり、 多年私が研究いたしました、 墓と家運の関係、ならびに墓相について、一席お話を申し上げる機会を得ましたことを幸せと存じます。
今日、お寺はあたかもお墓のために建てられたように見えますが、昔はそうではなかったのです。 その一家一族の現世の幸福と未来の安楽を祈るため寺を建立し、仏様を祀ったのでありました。 これがすなわち氏寺であります。 氏神ということはいまさら申すべきものではありませんが、 各市町村にそれぞれ祀られてあり皆様ご承知のことですが、 この氏寺についてはあまり無関心のようです。たとえば、奈良の東大寺は朝廷の氏寺ですし、 同じく奈良の興福寺は、藤原家の氏寺として有名です。
浄土教が盛んになるにつれ(祖先の)追福のため墓所に寺を建立する機運が起こり、 藤原家においては京都市外の木幡の墓地に淨妙寺を建立したのがそれにあたります。
禅宗が伝来して以来、その寺の中に墓をつくり、塔頭を設けるに至りました。 塔頭とは墓番という意味です。徳川期になると「宗門改め」すなわちキリスト教の禁止以来、 貴賎問わずみな檀那寺が一定され、終には寺は墓番が専業かのようになりました。 徳川期の宗門改めの結果、嫁に行くことも、婿に行くことも、また奉公にあがることも、 旅行することも、檀那寺が承認の印を押した書類がなくてはならなかったのであります。
それから、はじめに申しましたが、単に墓といえば、人の死体を埋葬した所のことで、 その上の建築物ではないが、今一般に墓といえば、死人を埋葬したところも、 またその上の建物すなわち墓標、石碑、石塔、ことごとく墓と申しましてとおります。 しかし私がこれより、お話もうす墓という言葉は、きわめて狭義のほうで、 すなわち石碑、石塔に限ったものとご承知を願っておきます。
わが国において一般国民が、その外部的設備として、石碑、石塔を建て、 これに法号または戒名を附するに至ったのは、徳川幕府以来、すなわち檀那寺関係のおこった以後のことであり、 古くても三百年に達するものはまれで、多くは貞享、元禄以後の二百四五十年に達するものが古い部類であり、 それ以前の正保、慶安、承応、明暦、万治、寛文、延宝などの年号のものは絶無ではないが、ほとんど稀有であります。
さらに、いにしえにさかのぼり文献によれば、大和の國生駒郡生駒村大字有里の行基菩薩の墓に、 多宝塔を建てられたことの記録があり、それは今より千百八十二年前の昔、 平城右京の菅原寺に寂せられた同菩薩の墓誌銘によって知ることが出来たのです。
さらに今日、形が現存するもので最古のものは、 大和の國高市郡高市村大字稲淵の龍福寺にある石造の層塔一基であります。 これは、その初層の周囲に昔阿育王云々の銘があり、表面の風化がひどく、とうてい全文を読むことが出来ませんが、 末尾に天平宝字三年および従二位等の文字があり、これを金石文考証や、日本図経を参考にすれば、 従二位の下に竹野王とあったようです。結果、これはおそらく竹野王の墓標として建立されたものでありましょう。 じつにわが国において銘のある石塔の中で最古のものであります。 天平宝字の三年は今から千百七十二年前の昔であります。
それから平安時代になって、多宝塔や層塔のほかに 石造の卒塔婆が起こりました。 これは初めには供養のために建立されたものでありますが、後には石塔と同じく墓の標(しるし)となりました。 そのあと、草堂または小堂を建立する風潮が起こり、これが後世、霊廟の起源をなしたものであります。 またこの平安朝時代には石造の五輪塔や宝筺印塔などが起こり、広く建立されることになりました。
それからこの鎌倉時代から板碑と称し、緑青岩すなわち青石、 または秩父石とも言う薄くて硬い自然石の平石で造られたものが建てられるようになりました。 これは元来卒塔婆と同意義のもので、もっぱら供養のために用いられたものであります。 昨今、好事家や考古学者の間で非常に珍重されるものであります。 これは足利時代になって最も全盛を極めるようになり、そのころの板碑には、
以上はおおむね皇室において行われた御陵墓の事例でありますが、 堂塔を建て墓所にする傾向はやがて貴族にも用いられるようになりました。 そして鎌倉時代になると武家も墳墓堂を建てるようになりました。 あの奥州平泉中尊寺金色堂の下には藤原清衡、基衡、秀衡三代の遺骸を葬ったことは有名なことであります。
供養のために先人の建てられたものを利用して、後人がその背面に法号または戒名などを刻入し、 これを墓碑にした例もまた少なくないのであります。 このようにわが国の古(いにしえ)の時代の石碑、石塔の種類は多様で、 多宝塔、層塔、五輪塔、石造卒塔婆、板碑そのほか五重または七重の層塔、 あるいは十三層塔、または宝筺印塔のように種々あります。 ようするに徳川時代にいたるまでは以上の種類の物で、 その大体が皇室、貴族、武家、その他には名ある法師とか門閥に限られて建立されたものであります。
徳川時代になって一般国民が広く墓碑を建てるようになりました。 このかたのものを挙げますと、前述の古来各種のものを踏襲し用いられたものも少なくありませんが、 この時代の古いところでは、石造の祠形(ほこらがた)、仏像、たとえば、阿弥陀如来とか観音とか地蔵とかの類。 それから卒塔婆形の石碑、屋形すなわち石塔の頭に仏堂の屋根御拝の形を頂いたもの、 それにまた、根府川石や普通の自然石などを用いたもの、 その他今日一般に用いられる切石でつくられた各種のものでありますが、 この約三百年間のものを形によって時代を区分するとおおむね五六期に分けられます。
墓、すなわち石碑、石塔がめいめい家運とどういうかかわりがあるのでしょうか。
これは、大変興味のある問題であるとともに、わが日本国家の一大問題であるということもできます。
なぜならば、わが国の如く上に万世一系の皇室を戴く国民として、 我々の家も畏れ多いがこれにあやかり子孫が長く続いて、 且つ栄えるということはわが国民の大なる理想でなければならないことと信じます。 またこれは我々の一大願望であると信じます。
私が多年研究した結論から申しますと、お墓はその家の相続を表わすものであるということを申しておきます。
またお墓は、その家の根であるということを申しておきます。
なにゆえお墓は家の相続を表すかといえば、 三百年この方建てられた民間各家の墓を数十年これを調査研究いたしましたが、 代々親の墓は子が建て、子々孫々、代々これを順々に建て来たりし家は、 子孫よく続いて且つ栄えておりますが、これに反したる家は、或いはつぶれ、或いは枯れてついにことごとく絶えております。
また世の中には、大変に手回しよく自分の墓を自分で建てるものがございます。
このような場合、その子は病人となって世の用をなさぬ廃人となるか、 または放蕩をはじめるとか、不良の徒となるとか、とにかくその後は満足でなくやがて絶えるようなことになります。
また家を相続する人が他の土地に出て生活するものが少なくありませんが、 その家の墓所を調べてみますと、その墓所にはもはや一基の石塔も立つ余地のないのが不思議です。
相続人が他郷に生活している事情は種々ありまして、ある者は大学で医学を勉強して医学士となり、または医学博士となったが、郷里の田舎に帰ってはせっかく勉強したかいがないから都会で病院に勤めるとか、学校で教鞭を執るとか、また或いは自ら開業するとか、その他或いは法学、文学、理学、工学または商学とか、種々様々な学問を学んだものが田舎の町村などに戻ったところで始まらないから東京なり、またはその他の都会なりで弁護士となるか、裁判官となるとか、そのほか官公吏となるとか、或いはまた銀行各社などに勤めるとか、または自己独立の事業を経営するとか、それぞれ学校出身者はもちろん、そのほか種々の技芸職業を覚えたものも同じく田舎に帰っても商売にならないので広い都会で働くとか、 稼ぐとか、種々様々でありますが、要するにはそれは現世の事情に過ぎないのでことの因縁はその家々の墓所を見れば分かりますが、前に述べた通りやはり一基の石碑を建てる余地が有りませんのであります。
お墓がいっぱいになって余地がなくなると、 だんだんその家が枯れてきて終に死に絶えてつぶれるようになるとか、 またはその相続人が他に出てしまうようになります。
人の家はあたかも盆栽のようなもので、我々は縁日の夜店や植木屋などで花がよいとか、 樹ぶりが面白いとかいってこれを買って帰り、水ぐらいは絶えずやりますが、 もとよりその培養の方法を知りませんから、しばらくするとほとんどみな枯らしてしまいます。
それを盆栽に趣味を持つ人や植木屋などになりますと、枯らすどころか持てば持つほどよくして参ります。
それはその樹や草の種類によって毎年とか、隔年とかにこれを鉢より抜き出してその古根を切り取り、 土を入れ替えて新しい根の出るようにして、時々必要な肥料を施しますからだんだん良くなるのであります。
人の家もこれと同じく、墓地いっぱいに石塔の数がふえたらこれを整理しませんと、 前にも申したとおり絶えるとか、つぶれるとか、または相続人が家出してしまうようになります。 其の実例を挙げますれば、すこぶる沢山の資料を有しますが今一つ二つ挙げますと、
ある家の相続人が青年のころ外国に遊学いたしまして、予定の年限はとうに過ぎましたが戻ってまいりません。 それが五年過ぎ、十年過ぎ、十五年過ぎ、果ては二十年過ぎてもなかなか帰るような様子もありません。 両親も追々と老境に及び、初めはこの両親から帰国を促すこと幾十たびかわかりません。 後には親戚とか、縁者とか、友達とかからこれも幾たびか数知れぬほど帰国を迫りましたが、やはり帰ってまいりません。
そのうちにふとしたことから、 その家の菩提所である寺院において墓地整理のことが行われることになりまして、 石塔で一杯のその家の墓所も整理されることになりました。 その結果、その家の墓地も大いに余地ができてまいりました。 すると前に申すとおり幾年の間、幾十度帰国を迫りましたが戻らなかったものが突然帰って参りました。
家を相続する息子は、すなわちその家の先祖の現われ来たものでありまして、 その先祖にあたる相続人が死していくべき墓地が一杯であれば、いくところがありません。
これがなかなか帰ってこなかった因縁でもあります。 それが墓地の整理が行われ余地ができたものですから偶然にも戻ってくるようになったのであります。
またある家の相続人も支那の方に行って働いていたのですが、 これまた今年は帰る、来年は戻るともうしながら、なかなか帰ってまいりません。
その家はその父の代に中国の方からこの東京に移ったのですが、 墓所は遠き郷里に有りましてほとんど一杯になっておりました。 父親は先年没しましたが、まだこの東京には墓所さえも持たなかったのを一人残って留守する母親が、 この東京において新たに広々とした墓地をもとめましてその父親のお石塔を建てました。
するとこれも不思議と何年かぶりで帰ってまいりました。
またある家では、一人子の相続人が少々放蕩をはじめまして、家を飛び出し四五年も戻ってまいりません。 その両親はかけがえのない一人息子の事なれば、一通りの心配ではありません。
然るにこの家は、その父親が分家されたのでまだ墓所を持っていません。
ところでふとご縁があってその父親が私のところに来られたときにその息子の家出のことをなげかれ、 これに対してお墓の有無を尋ねましたら、その人がおっしゃるには 「私は分家したものでありますからまだお墓はありません。 しかしせがれの家出にはことごとく心配しておりますが、まだ墓のほうは心配いりません」と大いに不満げのようでありましたから、「それはごもっともでありますが、おおよそ人は家があっても墓所を持たねばその家は永続しないで滅び、 また墓があってもその建方が悪ければ、その家もまた枯れるにいたる」と言う理由を詳しく説明したところ「さようなものかもしれませんが、私は墓所を求めましても第一にお祀りする仏がありません」という。
「そのとおり、あなたは分家した初代の人ゆえまだ仏はありますまいが、父母はありましょう。 祖父母はありましょう。またその先祖もありましょう。 墓所を求めてそれをお祀りするのである」とさらに説明しますと、またその人が申されるには「それは父母も祖父母もそのまた先祖もありますが、それは皆本家で兄が祀っております」と誠に怪訝そうな顔で答えられましたから私はこれに対して「それを本家で祀ってなくては大変です。 しかし、子として親及び先祖を祀るということは、何も本家とか兄とかに限ったものではなく、 子どもが沢山あれば、その沢山な子どもがおのおのことごとくその親及び先祖を祀り、供養せねばなりません。 子として親及び祖先をたとえ忘れはせぬとしても、これを祀って供養せねばその人の後はありません。
ただ、本家と分家とはその祀り方が異なるのであります。 本家はその家を相続するのでありますから石塔を建てて祀れますが、 分家は相続できないから石塔は建てられない。 そこで塔婆をもってこれをおまつりするのであります。 あなたは息子を単に自分だけのもののようにお考えですが、 相続となる息子はすなわち将来あなたの家の根となる一人でありますから、 その根の培養される墓所がなくては育ちませんし、また居られません。 そうすると家出の事情はたとえ道楽が原因であれ、何であれその因縁は墓所がないからのことだから、 まず墓所を求めてそこに木塔婆を建てて、ご先祖及び両親を祀り、供養なされ」と申したらはじめて納得されまして、まもなく墓地をもとめられ、先祖祀りをされました。
するとこれもまた不思議にも四五年間も寄りつかなかったその息子が、 親戚のところまで戻ってまいり、長く家を空け両親始め親戚に心配かけたことをことごとく悔悟され、 両親に詫び言の扱いを申し出でました。
両親の方では、それを待ちかねていたのですから何の支障もまた面倒もなく、 納まって家に帰られ、今ではすこぶる堅気となり、両親とも親しみて家内和合し、最も平和に暮らしております。
このようなわけでお墓は相続のものであり、またその家の根であるということもうかがい知らされるのであります。
ここに分家の話が出ましたから、この分家のことにつき私が研究したところによりますと、 面白い事実が現れましたからそれをお話いたします。 分家を出す事情の根本とも言うことはすなわち、 むかし血統を尊ぶところの思想から胚胎していることはどなたも承知もことですが、 ここに民間における普通一般の家庭の事情では、例えば子どもが二人しかいない、 一人が相続し、あとの一人を世間並みに嫁なり婿なりに出してしまうのは誠に寂しいから、 女なら婿を迎え、男なら嫁をめとって分家さすとか、また沢山の子どもがあればあるで、 これを相続人一人残してほかは皆出してしまうのは同じく寂しいから、 ひとりふたりは嫁なり婿なりとって分家をするというのが多いようであります。
事情が何であれ、分家を出すという因縁の元はその家には、三代か四代の間において、 その家へ婿なり嫁なりに来た人の実家が必ず絶えているのであります。 それがなければ事情の如何を問わず、分家というものは出てまいらんのが不思議です。 分家というものにつき、かなり沢山の資料を集めこれを調べましたが、この数を外れません。
しかし、出す方も出るほうも、このような因縁を知りませんから、 財産のことばかりで分家して、多くは前の例と同じく、墓をもって分家しませんから、 その家に根がないので、長く続くのが少ないようであります。 もし、分家が長く続いておれば、本家の方がつぶれるか、または絶えております。
中には、嫁に来た母の里が、絶えているとか、養子に来た父の実家がつぶれているからとかで、 子供にそれらの家を相続させるものもあります。 これらは、みなその家の絶えた家の仏を持っているわけですが、あまりよくその祀りをしない方が多いようで、 結果はその家の永続が出来ない方が多いようです。
それから、よく一代に名を成し、財産を作る人がありますが、 その名声や財産をきちんと後世子孫にまで伝える人は誠に暁の星の如く、まれなようです。
名誉と財産は代々累代で築き上げたものは手堅いが、一代或いは一時にできたのは、 誠に槿花一朝の栄で、長持ちいたしません。なぜ、永続しないのでしょうか。
これもやはり、根がないためで、すなわち完全なお墓持っていないからだということを断言いたします。
これについては少し例を述べてみましょう。
明治の元勲、岩倉公の後はどうなったでしょうか。
公は位人臣を極められ、生存中は従一位の大勲位、左大臣であり、他界されてからは太政大臣を追贈された。 天皇が国務を三日取りやめられ、国費で葬られ,葬儀は大変盛大であったそうです。 公は剛毅な性格でありながら淡白で、節約を大切にして家訓をつくり、贅沢を子孫に戒められました。 その家訓が出来て一族が調印されたのは、公がご他界される五日前だったそうです。
しかし、公がご他界されてまだ日が浅いのに、二代目は公の家訓にそむき,贅沢を極め、その結果、破産没落の悲運を見たでは有りませんか。あまりに同家の運命は、極端から極端を示しているではありませんか。
このようなことは、どこからおこるものでしょうか。公の成功は、もとより不世出の俊傑であって、 維新の大事業を成功させるのには、その力は有り余る人であり、 その名声の輝かしいのは当然のことですが、ただ公の英俊と好機をえたばかりではこの成功はなしえないのであります。
これは遠く祖先、すなわち岩倉家の長年集積された功徳と、 その生家である堀川前中納言家の施された陰徳がもたらした果報であると信じて疑いません。
しかし、公は生存中、国事が忙しいことを理由に祖先に対し、 供養や報恩感謝の祭事を怠ったことはなかったのでしょうか。 公のお墓は品川海晏寺の本堂裏の高台に最も立派に築かれてありますが、 これは墓相からみれば盛運のきわまったもので、子孫はお気の毒といわざるを得ません。 公はすなわち、過去先祖の積まれた陰徳はもちろん、 長く子孫が受けるべき果報までも使い尽くしたものというほかありません。
次に木戸、大久保、西郷らいずれも明治維新の元勲であり,俗に「維新の三傑」と称せられ、 名声は輝かしいものがありますが、その最期はどうなったでしょうか。木戸公の場合、明治十年四十四歳の短命で病死され、しかも跡継ぎがありません。 弟の正二郎氏にもこれを相続させる子がなく、同じ藩士の来原家の男子である孝正氏を養嗣子にして、 侯爵家をつがせることができました。
大久保公は、参議兼内務卿として国政をつかさどり名声は輝くも、 同十一年五月十四日、出勤の途中、石川県の島田一郎以下六名に赤坂紀尾井坂で刺殺されました。 享年四十七歳でした。その墓は、青山共葬墓地内にあります。
また西郷参議兼陸軍大将は、元帥であり名声は前者をしのぐものでしたが、 国政に参加することが出来ず、郷里鹿児島に隠居するや明治十年、 常に教示してきた若い武士たちの犠牲となり、不幸にも朝敵の汚名をきせられ、薩摩城山の露と化しました。
さらにそのあとの三傑、すなわち伊藤、山縣、大隈ら三者の運命はどうなったかという前に、 前の三傑と似たり寄ったりあり、後の三傑の筆頭ともいわれる伊藤公は、 格別身分の高い家に生まれたものではないが、時の運に恵まれ、人臣として最高位に昇られ、 国家の元老として重責をになっておられたが、ロシア訪問の途中ハルピンで朝鮮人に殺傷され、 異国の露と散りましたことは誠に残念でありました。 その後はやはり子がなくて養子相続であります。墓は大井の谷垂にあります。
山縣公の場合は災難はなかったのですが、その家を継いだのは同じく養子であります。 大隈公も同様で養子相続でございます。共にお墓は小石川音羽の護国寺にあります。
先代がいかに名声を上げられても、その家を相続する子孫がなく、 他人の子供で家名を継がせるようなことは最も不幸であり、 このようなことは一代において立身出世を意のままにせられた結果壽運が乏しくなり、 子孫を欠くことになったと言うほかがありません。
いかなる名家でも、また名士でも、名も馳せ富も得、そのうえ子宝に富むという、 この三拍子揃うものは誠にまれなることであり、名を得れば富を得ず、 富を得れば子宝を欠くということが世間普通の状態であります。
某公爵家の場合、同じく明治の功臣の一人で、官位も高く名声も顕著でまた子孫も多く、 長男の某は当時有名な某大銀行の頭取となり、次男の方も某大造船所の社長であり、 その他の兄弟それぞれ皆さん各方面に頭を挙げ、一門挙って富かつ栄え、 明治功臣中まれに見る幸福の家であります。 前に述べた諸公と異なり、 この公爵家は過去にその祖先がよほど結構な福種を蒔かれたことと思っておりましたが、 一昨年の未曾有の恐慌に際し、その大銀行も、大造船所も、またその他の事業も大破綻して、 一門ことごとく失脚されましたのは、誠にお気の毒に思います。 その銀行の預金者や株主などはそのため非常な迷惑をこうむったそうですから、 それはまたやむをえない結果でありましょう。
そのほか富をもって一代に名を成したものは、なかなか少なくはございません。 徳川幕府全盛の時代、紀の国屋文左衛門や奈良茂などは講談などで皆様ご承知の通り、 一代に興して一代につぶれているのはもちろん、明治大正の富豪の中にもそれが少なくありません。
日露戦争の頃より出てきた言葉ですが、「成金」という言葉が今も使われておりまして、 ことにあの世界戦争の中途よりわが国には種々成金が出てきました。 船成金、鉄成金、株成金、その他何々成金と、当時数え切れないほど種々なる成金が現れ、 その成金という言葉がはじめて冠用されたのは、今もなおご承知の人が沢山ございましょうが、 それは何久(なにきゅう)と申す一青年にうたわれたのが初めであります。
世界戦争の時とは大分桁が違いますが、そのときには珍しき成功でした。 彼はたしか、埼玉県の某所の何某とか呼ばれた地方ではかなり大きい酒造家の次男坊とかで、 兄の何右衛門が酒造のかたわら経営しておりました銀行の東京支店で一店員として働いておりました折、 日露戦争が勃発いたしました。 そのとき彼は株式に手を出し、大当たりに当たりましたのみならず、 鐘紡株とかの買占めにはほとんど敵がなく、一時大成功を遂げました。 世界戦争のときや今日の財界から見ますとたいしたことではありませんが、 明治三十七八年の当時、三十歳未満の一青年が約一千万円ほど富を勝ち得ましたので、 世間では一時彼を成金の旗頭と褒称しましたが、まもなく彼は惨敗して元の木阿弥、 ただの歩(ふ)となって今ではただ笑い話に残るだけです。
これはお墓、すなわち根を持たずして咲かせた花と同じで、枯れずにいるわけがないので、 その失脚はむしろ当然というべきものでございます。
また、根、すなわちお墓を持っていてもその建方が悪いので、その家の枯れた実例を申せば、 下野の國(栃木県)のある町に横尾某と言う地方きっての田舎大盡がおられました。
その家では山の木を年々五万円ずつ切って売っても五十年たたねば元の場所に来ぬというほどのもので、 山林以外の富もいくばくあるのか分かりません。 その家の墓は住居の後ろの城山と称す山上にあり、 子供一人亡くなった者の墓でも何百何千円を投ずるような状態で、 墓所にお金をかけることなにほどか計り知れぬようなわけで、その美麗荘厳著しいものでありました。 田舎大盡のくせに娶る嫁は華族でなければ貰わない。 また出すのも華族でなければ相手にしないという豪奢ぶりで、 一年の大部分を東京で暮らし、その市中に投資してあるものもかなり沢山あったそうですが、 その主人が没してもはや十余年になりますが、息子が相続するとまもなく没落しました。 これらはその家の家運が美麗荘厳な墓と化してしまったのであります。
また一昨年の恐慌のとき、第一に没落した某個人銀行があります。 この家は江戸中古よりの旧家で、日本橋において初め海産物などを扱われ、 後、国立銀行がしきりに設立された時代に第二十何番かの国立銀行を設立され、 その国立銀行が廃されるときに自分の姓を冠した銀行に改めました。 その銀行は市中の信用も篤く、個人銀行としてかなり優勢なものでありましたが、 あの恐慌で内状を暴露し、終に大破綻を招き一家の没落はもちろん、 その預金者などに非常の迷惑をかけ、中には驚愕のあまり死亡した者などもあるとの噂さえあったような次第でありました。
この家の墓は浅草の某寺にありまして、 その先代は東京市より貴族院議員に選ばれたような名誉の人で、のち功により勲四等かに叙せられました。 先年亡くなりましたからそのとき建てられたものでしょう。 あるいはこの墓碑を建てるにつき先祖以来幾代かの墓を整理されたのであろうか、 沢山の法名を刻み込んだあまり大きくない一基の石碑がその墓所の片隅に建てられ、 墓地の中央の良い所に一段高く立派な石碑にその勲四等何々と現したものがあって、 そのほか二基ばかりそれに次いで建ててあります。
ご先祖方が積んできた功徳の余慶により東京でも屈指の富豪となり、 名誉も得たのにご先祖は片隅に寄せられ、 しかも石の過去帳のように一基の石碑に沢山の法名をならべられたうえに、 勲四等の先代をその墓所の主体のように建立されたことは、先祖を無視した不孝の形であり、 家運が革まるのは自然の勢いである。 その家の現在及び将来の幸福はことごとくその勲位を記した石碑となって顕われ、 よって石碑は、「家滅びて墓あり」と言うことを示されたのに過ぎません。
大分長くなりましたが、今一つの例を挙げます。この東京で三井、三菱に次ぐ富豪があります。 一代での成功者ですが、 不幸にして先年その主人は相州にある別邸内においてある者に飛んだ災難で刺殺されました。 その家の墓を数年前に見たことがありましたが、そのときの感じを同行の者に語ったことがあります。 それは「この家には争いが絶えず、また火の難を免れない」と申したことがあり、 果たせるかな後年それが事実になったことを見聞しました。
その墓もまた浅草の某寺でしたが、震災後どちらかに移転するように聞いておりましたので、 今はもうないかもしれません。 それは他の各檀家の墓に並び、 間口が八九尺、奥行三尺位で高さ四尺位の切石の上に三基の石碑が建っておりました。 中央の石塔には「何々家の墓」とその家の姓を冠し、 左右の墓には同姓の文字の下に「分家の墓」と「累家の墓」となっておりました。 これは同家一族、何家かの表現でありますが、その感じは前述のとおり「火と争い」でした。 その後新聞などの伝えるところによりますと、その家では最初娘さんに養子を迎え、 その方が戸主となって同家一門事業の中心人物でありましたが、 後に追々と実の息子さんたちが成人してまいり、 その間どのような事情があったのか、 終にはその戸主である養子夫婦を同家より離籍するようなことになりました。 また一族中の一家はあの十二年の大震災の折、一家全滅の災いをこうむりました。 また他の一家の主人は、あまり金を貸しすぎたとかのことにより、 一門から除外されました。 当時いずれも世間の嘱目されるところでありましたが、これまた、その墓の建方が悪いのでありました。
この家にのみ限ったわけではありませんが、同一の墓地区画内に本家と分家、或いは親子兄弟でも、 また或いは他姓のものでも混じって建つのは良くないので、もしそれが二軒のときは、 盛衰交々至り、三軒のときは火と争いの難を免れません。
いずれにいたしても、よき根、すなわちよき墓をもっておりませんと、 家が平和に長く栄えて続かないのであります。
しかしながら近年、都会はもちろん地方村落にいたるまで名々家々の墓を建てる状況を見ますと、 昔のように亡者あるごとにこれを建てる風習が廃りまして、何々家先祖代々の墓とか、何家累代の墓とか、 何家の墓とか記したものを一基建て、これで以後代々の用となす風潮が流行するに至りました。
しかもその形は益々大きなものが好まれ、中には見上げるようなものを造り、 これに何千円または何万円という巨額の金を費やし、 これ見よといわんばかりの墓がいたるところに多く建てられるようになりました。
誠に嘆かわしいと思うことの一つであります。
なぜならば、近頃の人は墓をなんと心得ているのでしょうか。
あるいはこれを自家の誇り、またあるいは広告のように思うのでしょうか。
元来人の亡骸はもはや価値のないものであり、落命の後は元の土に還るのでありますから、 これを野に捨てたり、または水に投ずることも可能ですが、それでは人の禮にはずれるからこれを火葬にするとか、 または土葬にするとか、とにかく生きている人に対する禮をもってこれを扱うことが最も大事であります。
それと同時に、残るところの霊魂、すなわち目には見えないが この不滅の霊魂をより大切にお祀りすることが最も肝心なことであります。 この霊魂をよく鎮まりますように、またよく休まるようにお供養しお祀りしないと、亡者は成仏が出来ないことになります。 前にも申しましたが、生存中に自分の墓を自分で建てると、その子は廃人となり、 終にはその家もまた廃ると申しましたが、試みに自分の墓を自分で建てた人があれば その後を調査されたら思い当たるでございましょう。
前述のように自分の墓を自分で建ててさえこのようなことですから、近頃のように先祖代々あるいは累代、 または何家の墓という一本の墓を建てて、それで将来子孫の代まで済まそうとするのは、 もはや子孫のいらないことになるので、その家はそれで終わりとなるのでありますから深く考えねばなりません。
もし子孫長久と繁栄を願うのであれば、親の墓は子が建て、親の墓は子が建て、 代々順々にこれを建てるようにせねばなりません。 墓を建てるということは子が親に対する最後の勤めとして、この親の墓を子が建てるということがなければ、 子も不用、相続も不用、家も不用ということになるのであります。
これが墓があれば家があり、家があれば相続もあるということになるのであります。
このように申しますと、あるいは諸君の中にこの東京のように一坪の墓地も容易に得られぬところでは、 亡者のあるごとに石碑を建てるということは、到底不可能なことである。
中にはまたわが日本のように小さい国では後には墓で一杯になってしまうであろうと言うかもしれませんが、 誠に東京のようなところではいかにもその通りですが、何も大きな墓を建てるのが能ではありません。
墓地が狭ければ狭いように、小さい墓を建てればよいので、また日本のように狭い国ではと言うのは、 ただ理屈を言うのに過ぎないのであります。
わが日本開闢(かいびゃく)以来二千六百年、まだ墓のために麦を作るところも、 芋を植える畑も少なくなったとか、また家を造る土地がなくなったとかいう例はありません。 その点は杞憂に過ぎません。
それよりさらに肝腎なことは、この東京のように開けた上に種々なる動力、さまざまなものの音響で、 生きている我々でさえ神経衰弱になるというのに、いかに霊魂といえどもこの音響の中では安らかに鎮まることが出来るでしょうか。
これは我々が千思万考の必要があると思います。
さる大正十二年の大震火災の後、その震災地跡に残る寺院墓地はことごとく特設墓地と改まり、 一見誠にきれいであり、衛生的であり、また火災の心配もなさそうで結構のようですが、 この墓には将来がなく、子孫が出来ないただ過去を祀るにふさわしいのみというほかありません。
このように申したら、おそらくこう言うでしょう、
「どうせ仏は過去のものだから、過去を祀るにふさわしければそれで結構である。 いかに全国に亘り沢山の墓を研究されたとしても、まだコンクリートの墓についての研究はなかろう」と
そう反駁する人もあるでしょうが、なるほどコンクリートの墓は近頃の産物で経験のないのは事実ですが。
従来墓地に草が生えるのを嫌い、また墓所をきれいにする目的でよく石を敷き詰める人があります。 しかしその家はだんだんと傾いてくるから不思議です。
墓所に石を敷き詰めてさえ家は傾くのに、コンクリートの墓所では到底未来がないものと 推断するのもまた決して不当の妄断でないことを確信しております。 ゆえにこの墓所の将来は大変興味をもって嘱目いたしている次第であります。
それでは、どのような石碑石塔を建てればよいかということになりますので 参考までに一つ二つ標準となるものを述べて見ましょう。
しばしば申すとおり、石碑すなわちお墓は、家の相続のものであります。
しかしながらその家の相続などに関係なく、また子孫が続こうが続くまいが、 また栄えようが栄えまいがかまわないと言うなら、どのような墓を建てても自由です。
子孫が長く続いて栄えることを理想として希望するなら、それにかなうようにして建てるのが良いわけであります。
その家の先祖の墓が、その家相応のものであったならば、 それに習ってあとはそれを凌ぐような大きなものは決して建てないようにして、 同じくらいか、またはいささか遠慮して少し小さいくらいに建て、 以後は子々孫々これにならい代々順々に建てるのが良いのであるから、まず一代に一基は建つことになります。
近頃流行の先祖代々、または累代あるいは何家の墓、あるいはまた何の誰の墓などとするのを不可とする理由は、 先祖代々や累代では過去ばかりの表現で現在がない。ゆえに将来がないことになります。
また何家の墓ではそう言う家がこの世の中にあったということを残すに過ぎないことに鳴り、 また何の誰という俗名そのままの墓ではその人が生きている姿であり、成仏も覚束ないだけではなく、 前の何家の墓と同じく、そう言う名の人がこの世にいたということをやはり残すだけで、 それは因縁でやむを得ませんが、後がないことになるから注意を要します。 人は亡くなればその亡骸は埋葬されてなくなるのであるから、何の誰と言う生存中の名ではいけない。 必ず何々居士とか信士とか、または女子ならば、何々大姉とか信女とか、変化しなければなりません。 しかし、こちらは神道だ、耶蘇(キリスト教)だ、 ゆえに仏教のように法戒名がないのだと言うものも沢山あって、そのような墓を建てますが、 私の調べたところでは、その家があまり長く続いたものはありませんでした。 たまたまあってもそれは養子相続ばかりでありました。
この東京で青山そのほかの墓地に参りますと、爵位や勲等やその他位階を附し、 例えば何爵何等何位、陸または海軍大将何某とか、 またあるいは何官誰というように在官そのままの石碑を建ててあるものが多数あり、 これもまた子孫長久を祈るのに反することになります。
従ってこのような墓を調べると分かりますが、 子孫のない方が多く、多くは養子相続か、また子孫があっても気の毒なほど振るいませんから、 やむをえない次第であります。
先祖代々、同累代、何家の墓または何某の墓が、不可であるならば如何にすれば良いかと言われるが、 大体には前に申したように、一基の石碑には両親すなわち夫婦の法戒名をだけを併記して祀るのを原則といたし、 家族の者で未婚の兄弟姉妹は一基に数名併記して祀り、また十四五歳以下の童男童女には、 私は地蔵尊を建てて、また十五歳以上の女子に限り、観世音の像を建てて祀っております。
それから根府川石や仙台石、またはその他の自然石を使って墓を造る人が古来ずいぶん沢山ありますが、 この自然石の石塔のある家は、絶家となる家が多くありますので注意を要します。
ではどのような石が良いのかということになりますが、 私は石屋ではないので石については詳しい説明ができませんが、墓を調べた経験から申しますと, この関東では伊豆の小松と言う石が一番理想にかなっているようです。
白色の石は最も結構ですが、御影石を近年よく用いるものがありますが、 少し年数が経ちますとはねてしまって、文字が分からぬようになるから感心いたしません。
黒御影および黒色の石は、悪相ですから用いない方が良いでしょう。 小松石の次には新小松とか、三沢石とかまたは奥州の須賀川石などが良いように思います。
次に墓の大きさですが、これは身分相応がよく、昔は一般にごく小さなものであったが、 これも時代で、何も昔のような小さいものを是とばかりはしません。
時代相応ということも肝腎であるから、その辺のところもくみ取り、 試みに標準の寸法を申してみれば、竿石の丈は一尺七八寸より二尺二三寸ぐらいまでで、 幅は八寸ないし一尺までで、奥行きは七寸または八九寸とする。
台石は必ず二段とし、中段は幅一尺三寸ないし一尺五六寸まで、丈は八寸より一尺、下台は幅一尺八九寸ないし二尺二三寸、 丈は一尺以上一尺四五寸ぐらいまでを可とします。 近頃の石屋ではその下へ芝石と称し、丈四五寸の物を一枚用いますが、それは不用のものであります。
以上のもはただ一例を示したに過ぎません。
私はまたいずれの土地へ旅行いたしましても、初めての所ならまずその土地の墓地に行き、 墓を見るのが一つの癖のようになっております。市街を見るより誠によくその土地の状態がうかがわれるのであります。
たとえば、この東京のような土地の墓地、すなわち第一には東京市で経営されている青山とか、 谷中とか、染井とか、雑司ケ谷とか、また遠く多摩の墓地とか、その他数ある寺院の墓地ですが、 これを通じて感じるところの重き点を申しますと、この東京には永続する家がない。
また立派な邸宅を造られるが、これに住みきる人は誠にまれである、と言うことが最も著しく感じるのであります。
先刻別席で皆様のお集まりを待つ間、今日この私の話の会を主催されました大井仏教連合会の会長さんのお話を承りますと、 会長さんがお寺の移転で調べた経験のお話ですが、百年の間に百軒の檀家は八十軒消えてなくなり、 二十軒しか残っていないような割合であり、人の家は続かないものとのことでした。 しかし、百軒中二十軒残っているのは良いほうで、私の調べたところでは、総て大都会における状況は、 ここに百軒入る袋をある町にかぶせ、この中に三十年前から住んでいる家はどれくらいかと見れば、一軒もない町が多い。
さらに千軒入る袋を用いれば、その中にはわずか五軒あるいは十軒ぐらいはあるという具合で、 三十年にしてこうであるから、なかなか百年となると無いほうが多いようです。
しかし田舎に行きますと大分違います。
地方でも村落と小都会、または町と称する小市街とは大分差がありますが、 小都会でも昔の城下などで現在では交通が不便で、しかもろくな物産がないような所へ行きますと、三十年の間に百軒もの家が、今では五軒か十軒しか残っておりません。
それが村落の方へ参りますと、その半数または六分は残っております。
都会と言わず、村落と言わず、その土地の盛衰の状況はその土地の墓において、 ほぼ窺い知ることが出来るのでありますから、まして一家一家の家運の栄枯盛衰状態もこれに現れると言うことはあえて不思議ではありません。
ここに面白い挿話があります。
この東京で私の知己に一人の紳士がありました。
ある年その人のためにその人の郷里へ墓を見に行きました。
東京から二十里あまり、 その村外の停車場で汽車を下り、やがてその村に入ると、まず私は申しました。
「あなたの村は年々疲弊して村の土地も、ほかの土地の者の所有になるのが多いでしょう」と。
これを聞いてその人は大いに驚き、このように申されました。
「お言葉通りに相違はございませんが、今この村に来たばかりでどうしてそれがお分かりですか」と、 いぶかしそうな顔で尋ねますので、「それはなんでもないことで、道端の庚申塔、畦の際の地蔵尊、畑の隅の墓などを見ると、 どれもこれも皆ことごとく枯れているから分かるのだ」と申し、話しながら行くと、いつかその人の菩提寺である何々院というその地方一番と称せられる寺院に到着しました。
しかし驚いたことに、本堂が荒れ果てており、下駄履きでないと上がれず、本尊を拝もうとしても物置同様であり、 何としようもない状態でありました。
住職は少し離れた別棟の庫裏に住んでおられました。
これでも昔はこの辺での名刹であったというから驚かざるを得ません。
そこでの用事は済ませたが、その人が言うには、 「自分の出た土地であるから出来ることなら村も寺もよくなるようにしてみたいが、何か方法があるでしょうか」と言われるから、 「それは善くなるかならないかは分からないが、一度この寺の墓を洗い、本堂の本尊さんも拝めるようにしてみよう」と申し、 その後折りがあったから人々に話をしたところ、すぐに賛同される方がかれこれ三十名ばかり出来ましたので、 一同そこへ出かけ村人を頼み水汲みの手伝いをさせ、こちらから行った連中には、 相当なところの奥様やお嬢様などもいらっしゃったが、一同全員襷がけの尻はしょりでその寺の石塔を片端から洗い始め、 とうとう全部洗い尽して帰ったことがありました。
当時その村の人々は変な目でみておりました。東京には物好きなひま人があると見え、 汽車賃やそのほかの費用を遣い、人の村に来て人の石塔を洗ってゆく変わった人もあるくらいに見ておったようでしたが、 その後この村人が集まったとき、この話が出ますとある年寄りが、「あれは何も物好きやひま人というわけのものではない、名々の功徳積みをしに来たもので、むしろ有り難いくらいのものである」と説明されたそうであります。
すると村人一同が「人の墓を洗って功徳になるなら、村にはまだ他に三四ケ所墓場があるから、村中総出でそれを洗おうじゃないか」と発議したものがあったそうです。
すると村中大賛成でたちまちこれを決行したそうです。
それからが面白い。まずその年も無事に過ぎて、翌年の一月になり村人が前年を顧みると不思議なことがある。
それは何かというと、この村が去年、麦も米もまた蚕も四隣の村よりよくできてことごとく豊作し、 しかもいずれの村よりも一番値段のよい所で売却した。
これはどうした訳だろう。村中こんな幸福に出会うと言うのは何のためだったろうと、寄るとさわると村人の話しの種になった。
そこで、誰となく思い当たってきたのは去年の春の墓洗いのことでした。 あのほかにはこの村が他の村と異なったことはない。 それではあの功徳でこのような果報を受けたのかと、村中こぞっての喜びであった。
この村は四組に分かれており、多年折り合いが悪く、甲の組の言うことには、乙の組で反対し、 丙の組の唱えることには丁の組では不賛成と言うように平素誠に一致しないので、ますます村は疲弊するばかりであったのが、 このことがあって以来、四組が一つになって何事も共同一致、睦ましくやるようになり、 村の平和はもちろんお寺の方にも、また隣村のお大尽が相次いで檀家になるような吉事祥事が重なり、 村中歓喜雀躍しているそうです。
これは話だけでも気持ちの良い事柄ですから、話の中に挟んでご披露した次第であります。
世間一般、各家庭の状態を見聞いたしますと、ある家では子供が生まれても生まれても死亡するとか、あるいは主人が早世するとか、また家内が先立つとか、あるいは家族に病人が絶えないとか、または相続人がないとか、またあっても病弱だとか、あるいは子供があっても低脳だとか、不良だとか、またあるいは家族が災いで死ぬとか、変死者が出るとか、あるいはまた商売がうまくいかないとか、財政上に心配が起こるとか、また親戚だとか身寄りだとかに迷惑が出来たとか、あるいはまたは他人に難儀を持ち込まれるとか、縁談のもつれ、あるいは何、あるいはかにと数え上げればきりがなく、このような事柄は日々常に見聞するところでありますが、そもそもこれは一体に何から出てくるのでありましょうかと、皆さんにお尋ねしたら諸君は何と答えられるでしょうか。
「その多くは現世解釈を以って、それら以上のような事柄は、何も今日初めて見聞きすることではなく、昔ながらの世相であって、これがいわゆる憂き世とも言うのでしょう」と、答えられるのでありましょう。
誠にその通りでありますが、しかし、「何が原因でこのような世相が現れるのでしょうか」と、さらにお尋ねすれば、はたして何とお答えされるでしょうか。
世間では何か良いことでも悪いことでも度重なると、これは何かの因縁だろうとよく言いますが、進んでその因縁の元をいう人はない。また説く人もありません。
仏法の方では万物は総て因縁生のものとしてございます。
人がこの世の中に生まれてくるのは、みなそれぞれの役をもって生まれ来るので、生まれてすぐ死亡しましても、それが一つの役を果たしたことになるので、これを現世では、脳膜炎でとられたとか、また何でとられたとか、病気で取られたように申しますが、これを因縁より申しますと、始めより死ぬために生まれてきたのでこのような家には、必ず祀るべき仏があるのにそれを祀らず捨て置くから、その仏が催促に来たも同様であり、これをよくその家について調べてみると分かってきます。
この家庭における種々の問題も、要するに帰するところ、墓を持たないか、有っても良い墓でないということに起因するものと言わざるを得ないのであります。
これでも昔はこの辺での名刹であったというから驚かざるを得ません。
ここに病人についてこのような例があります。 浅草のある家に娘がおり、その娘は十七歳の時より血を吐く病気になり、あちらの病院、こちらの医者と足かけ五年間医療を求め、また加持祈祷などもしばしば試みたそうですが、少しの効もなく二十二歳になったが、このような病人なので嫁にも出せず、両親の心配はひとかたならず、しかしその容態といえば、血を吐くけれど世間にある肺病患者などとは異なり、その割合に衰えないのがむしろ不審なくらいでした。
その娘さんの学校の先生に私の知人がおり、「医者や祈祷で治らないのであれば、あるいは何かの因縁病ではないか、よく因縁を調べる知人がいるので」と言うことで私のところへ紹介してよこしました。
親子連れでやってまいりまして、その病状について細々と話されますから、「冗談ではない、病人をこちらによこすとはお門違いではないか」と申しましたものの、来たものですから一応その家庭の様子を聞きますと、この親たちが若かりし頃、夫婦連れで田舎から出てまいりまして、いまだ今日の成功がない時分、貸間でも借りて住んでいて、ちょうどこの娘が二歳のとき、その母親の方が亡くなったが別に墓所をもとめることもなく、その貸間の大屋の墓地内を借りてそこへ葬って以来、盆や彼岸に墓参するぐらいのもので、いまだに石塔一本建てずにあるとのこと。
「それはいけない、はやくどこかに墓地をもとめて石塔を建ててお祀りなさい」と申し「それで治るか治らないか
医者でないから私には分かるはずはないが、生みの母親を他人の墓地に居候させて、まだ石碑も建てないとはもってのほかだ」 この娘には母親、(父親には家内、今は後妻があるから先妻となるが、)その先妻は自分の寿命を夫の成功に代わって、その家の根になったにもかかわらず、そのままいまだに他人の墓に居候させてあっては浮かばれまい。
また成仏も出来ないからこれは早速実行なされと申しましたら、よく納得して帰られました。
そしてまもなく雑司ケ谷のある寺の墓地をもとめたので、どのような石塔を建てたらよいでしょうかと言ってまいりましたので、その雛形を書いて与えましたところ、その後どちらかの石屋に頼んで出来上がり、そのお寺さんに開眼回向をしてもらったそうです。
不思議にもこの石塔を建てた翌月から五年来の喀血があたかも忘れたかのようにとまりました。
けれどもなおこれは一時のことかと案じ、しばらくの間は時々医者にも診てもらったそうですが、別に病気はないと言われ、それから半年が過ぎ、一年が過ぎても何の別条もないないので、これは完治されたものと信じられ、家内一同大変喜ばれました。
それより二年後の一昨年、良縁があり他に嫁しましたが、そこでも何の差し障りがなく、今では夫婦仲むつまじく暮らされ、こちらへも時々見えます。
これは全く因縁病であったので、その母親の浮かばれないのが、娘の体の障りとなっていたので、それが今、自分の墓で自分の石碑が建ったのだから、これに満足されたものと見えます。
またもう一つの例を挙げますが、ある家に子供が九人あり、長男の相続人から続いて六人も死亡され、残るものはわずか三人になったが、その頭の七男が狂気した。
この場合も子供を沢山なくしているから、心配は一通りではなく、医薬には事欠かなかったが、どうも面白くない。
そのうちこれも縁あって、因縁ではないかと持ち込んできました。
私はもちろん人の因縁を見る商売ではない、お墓についてもまた然りだ。
これはただ自分が学問的に研究して見るのに過ぎないのだ。が、縁によって来られれば、自分もまた研究のため調べても見る、考えても見るのだがこの発狂者の場合も、その親たちが縁にすがって来られたので、まずその家庭の様子を調べたところ、その父親は生まれて間もなくどのような事情があったのか、母親が離縁されて生家へ戻ってしまわれたそうです。 そのため祖母に育てられたのですが、父はそののち後妻が来てこの人に何人かの子供が出来たので、十四五歳のとき家を飛び出し、外の土地で成人し、のちこの東京に転居したようである。
私が数多く調べたところ、世の中には種々な事情で母親と生き別れする子供は少なくはないが、もしその母親がこの別れた子供を忘れる時は、その子供は決して育たないようである。それが無事に育って成人するのは、その母親がこれを忘れない証拠であります。
それなのに子供のほうでは、その徳を思うものは誠に少ないようです。
この病人の父親も同様でして、母親のことなど夢にも思わないのみならず、もはやその身も六十に近ければ、その母親はとうに亡くなっているだろうに、線香一本上げる分別もなく暮らしていますから、この夫婦によくその不可なる所以を詳しくはなしてやりまして、その息子がこういう病気になったのは、あなたが母親を忘れていたためであるかないか知れないが、子として親を忘れてはならない。たとえ何かの事情で父と別れ去ったとはいえ、自分には血を分けた母親のことなので、その母親は何時何所でなくなり、どんな戒名を付けられているか早速にも調べて供養しなされと注意しました。
しかし六十年ほどの昔のことなので分かるか分からないか知れませんと、おぼつかなげに言いますから、分からなければそれまでのこと、その時はこっちで戒名を作って祀れば良いから、とにかく一度は調べてみなされと申したら、ようやく納得して帰りました。
それから二三日すると、その家へ五十年前の友達が国元から東京見物に来たのでといって、ひょっこり訪ねてきました。
あたかもこれは善しと思い、これを尋ねましたところ、その老友がよくそれを知っていて、それは大分前のことになるが、あの人はその後、どこそこへ再嫁してとうに亡くなっているが、それは何所の誰に照会すればすぐ分かると話してくれたそうです。
早速そこへ照会すると、数日で分かりましたがどうでしょう。
その母親が亡くなられたのがちょうど二十七年前の何月何日とかで、それがこちらの病人が狂いだした月日と同じ月日でありました。
たとえ知らずに過ごしたとはいえ、分かれた生母の二十七年目の、しかもその祥月命日に当たるその日に自分の息子が狂い出すとは、誠に因縁のさせるところか。とにかく分かってみれば早速こちらの寺へ行き、厚く供養をなされと話してやりましたところ、これも不思議と当たって、間もなくその病人は全快するに至りました。
また一つの例を挙げますが、元奥州のある大藩の領内に住居していた豪族が有り、明治維新後は家運もやや衰微しまして、 去る年から一家東京に出て、その相続の息子が、後に外国に行きまして、一つの事業を修得して帰国し、 この東京において目下盛大に営業しつつあります。
その方の奥様が病弱で、常に医薬を離せないために誠に寂寞を感じられるのですが、 はからずも縁ができてその主人と知り合うことになりました。
いつもその奥さんの病弱なことをおっしゃるので、一度詳しくその家の状態を聞いてみたところ、 その家はご主人で十二代も続く旧家の方であるが、このご主人の母親はこのご主人を産むと一年経つか経たぬうちに 何か事情があり離縁され、爾来継母が来てそれに育てられて成人したのですが、 もはやこの主人もその齢、知命の五十に達せんとしておれば、その生母が今日なお生存するや否や分からぬのはもちろん、 それを今日まで省みたこともまた思い出したことすらないということでしたから、それはよろしくないと申し、 前の例やその外、生き別れの母がその子を忘れる時は、その子は育たないもので、ことなく成人するのは、 その母がこれを忘れていない証拠であることをよく話し、一度その生母のことを調べてきなされと申し、注意を与えたことがありました。
その主人はこの話を大いに感動され、物心を覚えて以来、いまだかつて郷里の奥州にゆき、 先祖の墓はもちろん、家の跡さえ見たことがないと言う人でしたが、急に帰省して、 その先祖の墳墓を省みてあわせてその生別された母のことを尋ねてみると、 この家を離別して後、さらに七八里も離れた他郡のある家に嫁したが、 今から十余年前、病床においてもこの生き別れの子を思い煩いつつ亡くなったことが分かり、 その後その墓所まで訪ね行き、別後四十幾年最も感慨深い墓参をして帰ってきた。
その話を聞いた時、生母はもはや亡き人になっているので、父親と一緒に一基の石碑を造りお祀りすることが良いとお話しましたところ、 これも早速その運びとなりまして、その建立を待ち、その生母のために法事を営むことになりました。
すると間もなくその奥様の病気、しかも十余年来の長患いも忘れたように平癒して、夫婦の歓喜は例えがたきものがありました。
ある家ではまた、その家の相続人である十歳ばかりの男の子を亡くしまして、どんな墓を建てたらよいかと訪ねてきました。
子供がなくなるということは、前にも述べたとおり、その家に祀られていない仏があるのでしょうが、 先祖からのお墓があれば、一度それを見た上にと申し、その家の墓所、すなわち谷中へ案内されてその家のお墓を見て戻りました。
主人に対して、あなたの家には相当の家柄の家から婿さんか嫁さんかまたは養子が来て、その実家が今は潰れているものがあるでしょうが、 如何ですかと訪ねましたところ、ご主人も奥様も変な顔をして考えておられましたが、 先祖がこの東京に出てからまだ三代にしかなりませんが、どうもそう言う親戚があった心当たりはございませんという。
それがなくしてあの墓ではあなたのこの事業、すなわちこの店舗、この商売の状態は出てこない。 どうもあなたの家には、必ず二家の仏があるに違いないが、思い当たることはないかと再考させましたが、 どうもないと言い、もしそれがなければどうなりますかと、尋ね返されましたので、 どうなるか私には分からないが、どうもそれがないとこのあなたの事業も、根のない花のように思われますがと申したところ、 ではどのようにすれば良いのかと熱心に問われました。
そこでもし私なら一基の塔を建てると申しましたら、 それではそれを建てますから指導してくれと、真心こめて熱心に望まれるので一つの塔の図を書いて与えました。 するとこれを建てるに至った。もちろん当初の希望であった子息のお墓は別に図を書いて、 これには一躯の地蔵尊を建立するに至ったのですが、その塔の方はすなわち宝筺印塔と称する功徳塔でありました。
そうしてその塔が竣工したので、開眼をしたのが今より四年前の三月十六日でありました。
それから三年後の昭和四年の一月になりますと、図らずも未知のある人から書面がまいりました。
それには、このような手紙を上げますが、もし間違っていたら平にお許しを願うとかいてあり、 要約すると、その人に親戚があり、その親戚のためにある事柄を尋ねて同じ姓の家を捜しておられるようで、 その家の事柄とは、五十余年のむかし、その家の奥様が男の子を生み間もなく病死された。
そのためこの家と同じ姓の家にその男の子を里子として預けたとのこと。
しかし、その後その父親も続いて相果てて、後は親類などの後見で番頭らが店舗を預かったそうですが、 不幸にして継続が出来ず、終にはその家は一時断絶するに至ったそうです。 その家は小石川の白山附近で名字帯刀なども許されていたかなり家格のある家柄とのこと。
その家にとってはその預けた子供は相続人でしたが、 そのようなわけで、月日が経つうち預かった家のほうも何所に引越したとみえ分からなくなり、 以来五十有余年、この手紙をよこした親戚の人も六十余歳の高齢になり、生存中にその家を探し出し、 その親戚より預けられた人の生存を確かめ、もし今も生存するなら、その生家の有様も告げ、親戚の名乗りもいたす希望をし、 その旨を尋ねる内容が詳しく書かれておりました。
証拠物としてもしたずねる家であれば、笹の葉の定紋がついた短刀があるはずとのことであったが、 不思議なことにこの家にそれに該当する短刀があることのことでした。
とにかく一度その人に会うことこそと思い、この主人が手紙の送り主を訪ねると、 だんだん話を聞き、ほかの証拠であるこの主人の父親の名前にて出された里扶持の受取書などもあり、 この主人が尋ねられている人である確証としては、この主人の戸籍を見ると養子となっておるのです。
これについては、少年の頃、このことを尋ねたそうです。
その時両親が申したのは、お前は父が四十二歳のときに生まれたので、 四十二歳の子は捨てなくては育たないという慣習に従い、一度捨て子とし、知人に拾って籍まで入れてもらい、 さらに養子として当方にもらいうけるに至ったものだから、戸籍は養子になっているとの説明を聞き、 それを信じて今日まできたとのことである。
両親は自分に子がないのを幸いに預かった自分をその子として育ててくれたのかと、 初めて合点が行くと同時に、そのことを話すと先方でも大いに喜んで、それではあなたが尋ねるその人であったのか、 実はこちらは従兄弟に当たるものであるとのことから、あなたがそれなら、あなたにはまた、実の姉さんが生存していて、 それはこの東京より五六里西の方の村落で、大百姓のところに嫁している。 その大百姓は、年々この東京に沢庵の漬物を五萬樽も出しているとか。
話を聞いたらその姉さん、どんなに喜ぶことであろうと、ここにその従兄弟と親戚の名乗り合いができまして、 それからその実の姉さんとこの主人すなわち弟の間に初対面の幕が開けられるに至ったのです。
それはちょうど五十四年目で、あの塔を建てて三年目、しかも開眼された同じ三月の二十六日でありました。
奇遇というか、不思議と言うか、四十年目に訪ねあっても、三十年目に訪ねあっても、また二十年目に訪ねあってもよさそうなものだが、 五十余年の今日、しかも不思議な塔の引き合わせか、誠に不可思議の至りであります。
以上誠に小説か講談めいたお話ですが、私の扱いました実例の中からひとつふたつ挙げました次第で御座います。
なお、他にも種々なる物がございますが、あまり長くなりまして時間の余裕がなくなりますから、この辺で切り上げまして、あと少々お墓の整理と無縁墓の供養、ならびに墓相についてお話もうし、本日のお話を終わることにいたしますから、今しばらく御清聴をお願いします。
よく世間にはお石塔が墓地一杯になって、後の席がないからと言ってこれを片付け、そしてこのごろ流行のカラトを造り、それに先祖代々の石碑一基に改めた。
ところが、これが出来るか出来ないうちに、主人が仏様になってしまうとか、相続人が亡くなったとか、またあるものは先祖からある何本かの墓が、古く小さく貧弱だから、これを片付けて一本に改めたら、家内に不幸が続出したなどとの例が沢山あるので、世間一般に墓に手をつけることを非常に危険がり、障らぬ神に祟りなしなど申し、これを敬遠しているものもまた少なくないようであります。
これはどれもよくないので、古い墓、または悪い墓、これを片付けるには、片付ける方法があります。
それを無視してかかるから、咎めを受けるわけなのであります。
また古くても、小さくても、貧弱でも、その時、その時の時代の風や、その家の事情や、因縁によって出来たものだから、かえって大切であるのに、自分の虚栄心からこれを貧弱などと軽んじ、何の功徳も積まずに容易くこれを処置するから差し障るのである。
これを処理する方法は別にむずかしい訳があるのではなく、ただ功徳を積んでから処置すればよいものを、多くは無功徳で手を出すから咎めをうけたり、差し障りを招いたりするのであります。
もし家が古くなり先祖以来何本かの墓があって、自ずから墓地が一杯になれば前にもしばしば申したとおり、家運の衰退を招くとか、または相続人が家に居られぬようになるから、墓所の整理も必要となってまいります。
そこでその整理の件ですが、その何本かのうち、どれを残し、どれを片付けて良いかといえば、たとえ何本何十本あって、墓地が一杯になったからといって、その多くの仏に対し届くか届かないかにかかわらず、一々祭祀供養のことがよく行き届けば、決して家運の衰微は起きないのでありましょうが、それはなかなかできないのが、世間一般であるから、まずあらかじめ、供養の届く範囲においてこれを始末せねばなりません。
ではその供養の届く範囲とは、どの辺までであるかということは、またひとつの問題ですが、あまり遠くはないようであります。
私たちが生存中親の五十年忌を勤めるということは大変至難のことで、よほど少年のとき早く親に死別するとか、またよほど長生きしないとできないことで、なかにはこれを勤める幸せな方もありますが、誠に少ないことであります。
このようなわけで同じようにお祀りしてもとどくところは、祖父母までぐらいのところで、それより先は届きがたいようです。
しかし届かないからといって、決して先祖以来の仏を捨てるのではありません。
やはり大切に祭祀供養するのですが、これは常にはまとめて先祖代々として回向するので、時には代々の百年忌とか、百五十年忌とか、または二百年忌、三百年忌などを営むことは、最も結構なことであり、墓所の古い石塔はその供養の届く範囲、すなわち祖父母以下のものを残して、それより以前のものはみな片付けて、他の場所を選びそこへお祭りするのであるが、それを片付けて整理するには何か相当の功徳を積んでことに当たらねば、前に述べたように、さまざまな差し障りや咎めを受けますから、注意せねばならないのであります。 では、どのようなことが功徳になるかということになるのでありますが、その功徳積みの方法もまた種々ありますが、まず他の無縁墓を修理してこれを祀り、これを供養することが最適の福田、すなわち功徳であります。
およそこの世の中で鰥寡孤独(妻のいない夫、夫のいない妻、親のいない子供、子供のいない老人)の四つのものほど気の毒なものはなく、不憫なものはございません。すなわち老いて養う子がないもの、幼にして養う親のないもの、また身寄り他寄りのない孤独のものなどであります。
また人が死んで後、これを祀るもののない仏、またあっても後にそれが絶え終に無縁の仏となったもの。これは世の中の鰥寡孤独と均しく、気の毒なものであり、また憐れなものであります。
現世におけるそれらのためには、養老院とかあるいは孤児院とかそれぞれ社会の事業としてこれを養育し、これを慰める機関がありますが、目に見えぬ無縁仏、口をきかぬ無縁墓、これは誰が養育いや祭祀供養するのでしょうか。
あちらこちらのお寺へまいりますと、よく三界萬霊と記した石塔が建っております。
これはその無縁仏を祀ったものでございましょう。
それからまた、無縁墓、すなわち無縁となった石塔を一ヶ所に集めて祀ってあるのを見ますが、これにはどうも、感心できるように祀ってあるのはほとんど見受けません。
そればかりか、多くはその無縁の墓を何か他に利用するとか。または、これを潰してしまうのが、多いようです。誠に嘆かわしいことであります。
なぜならば、無縁の墓を粗末にするとその霊は世の中に放浪し、徳のない人、徳の欠けた人、または徳の薄い人などに憑依してこの世の中に様々な災いをかもしだします。
私は多年功徳のため、この無縁墓をあつめましてあちこちに無縁塔を造りました。
今もなお所々に建立しつつありますが、先年、足利の法玄寺という浄土宗のお寺の無縁塔建立のお手伝いをいたしました。
その無縁の石塔は約千本ばかりございましたが、ここにお伝えすべきお話がございます。
その約千本の無縁墓を祀る祭壇を造る起工式を行うので、その年の六月八日に出てまいりまして、祭壇築造の場所を選びましたところ、一本の植木が障りますので、その木を他に移すこととして、起工式はつつがなく終わりました。
私その後その木を掘らせますと、樹下の地内より一基の五輪塔が出現いたしました。転んであったのを掘りあげて重ねて見ますと、相当古い時代のもので、よく見ると鎌倉時代の五輪塔でありました。さらによく調べますと、これは足利家二代義兼の室、時子姫のお墓でした。鎌倉の壽福寺にある源頼朝の室、政子の墓、すなわちこの時子姫の姉公の墓に酷似したものであります。
この法玄寺にその墓があるということは、諸記録に明らかであっったが、これまでずいぶん探したそうですが見当たらなかったものが、このたび無縁塔を造るにあたりここに現れるに至ったが、さらに一層不思議を禁じえないのは、何の考えもなく決めたこの起工式の月日が、あたかも七百三十余年前、時子姫が亡くなられた祥月命日にあたる六月八日であったのであります。
無縁塔の建立については、いつも何か不思議なことに出会うので、今ではそれが当然のことのように思います。
この頃、と申しましても昨冬のこと、私に関係のある桐生の大蔵院という天台宗のお寺で同じく無縁塔建立のおり、いまはほぼ落成し、本年陽春の頃に開眼供養するはずが、昨冬着手の際に総代の人々が寺に集まり種々協議をしている時に、見馴れぬ六十ばかりの老婦人が来訪され申すのに、私は遠方より参りましたが、当寺に所縁のもが葬られているので墓参がしたく年々心がけるも何かと障りが出来て来られなかったのですが、今年この度ようやく思いがかなってまいる事が出来ました。
聞けばその仏と言うのは今より四十九年前に葬られたものであるとか、そしてその遠方とは、飛騨の高山から来たとのことでありました。しかもこの老女が続いて申すには、当寺では大勢さんお集まりで何かご相談のようですが、遠方から来た私に差支えがなければ是非聞かせてくれとのこと。これに対し住職は、当寺においては、この度無縁塔が出来ますので、総代の方々が集まりその相談をされているところです。
と答えますと、その老婦人はいきなり立ち上がり総代の席に会釈をしながら進み出て、誠に突然で失礼ですが、ただいま承ると当寺に無縁塔が建立されるとか、どうか私もその仲間に加えて頂きたいと申し出られ、これまでも来よう来ようと思い立っても何か差し障りができて来られなかったのは、こういう結構な有り難い時に引き会わせる仏の導きであろうといって一人大喜びに喜ばれ、旅先のことなので充分な用意はしておりませんが、とりあえずと言って、すぐに若干のお金を寄進され、総代の人々は面を食らった。
それから本堂において住職にその縁ある仏の回向を頼み、それが済むと再び総代の席に進み出て無縁塔にも花立や香炉が必要でしょうと言い、さらに若干のお金を寄進されたので総代一同は折りも折、こういう人が出てきたのも地下無縁の霊が歓ばれている霊験であるとして、大いに勇み立ち奔走されるに至ったのであります。
無縁の仏を祀って供養することは、重ねて申し上げるまでもなく、無量の功徳がありますので、皆様方のようにお寺さんには、きっと多くの無縁墓もお有りの事と存じます。
どうかそれをよくお祀りくださいますようお願い申しますとともに、もしこのような場合私どもは、喜んで出来るだけのお手伝いをいたしますのでご承知おきください。
やりかたが、感服できないと先ほど申し上げましたが、それはどちらの寺にも三界萬霊と記した塔や碑があり、これらを造り、祀りさえすればその無縁墓、すなわち石塔の方は壊しても潰しても、また他に利用しても良いようにとおっしゃられますが、それは私の考えと大いに違います。
長い年月の間に自然に摩滅して文字も分からないような状態になったり、または欠けたり崩れたりしてもとの姿をなくしたものは別として、満足な石碑をただ単にその家が絶えて無縁になり、露骨に申せば何年も付け届けがないとか、お参りにも見えないからといって、または墓の整理上の問題とはいえこれを潰したり、再利用したりすることはいけません。
ではこのような場合どのように処理すれば良いのかと申せば、私は以下のように考えております。
それはどちらの家が不幸にして絶えて無縁になるか分かりませんが、家が無事である間は、出来るだけお寺のことには奉仕もする、熱心な方になるとほとんど身命をかけてもお寺を護りますのは、万一不幸にしてその家が絶え、お墓が無縁になった時でもこれは寺が代わってよく祀って供養してもらえるからで、また寺でもそう為さねばならにものであると私は思います。
このように申しましたら、今の檀家にそんな殊勝な奇特な人はない。また無縁となったお石塔をそのままにしておいては墓地の整理が付かない。
またそれを一々供養し、お祀りしてはとてもきりがない。と言うかもしれませんが、それはあまりにも寺に不似合いな現世的なお考えでありましょう。たとえ在世の折、充分にお寺へ奉仕のなかった家でも、もし不幸にして絶えて無縁になったら寺でこれを供養し、よくお祀りすれば代わって良い檀家が現れてきますから不思議です。
もちろん墓所の整理と言うことは必要なことでありますから、石塔の処理と言うことは当然です。
そこでこれを動かすのはよろしいが、それを潰したり、再利用などはしないで、同様な無縁墓を一ヶ所に集め祭壇を造り、これにその石塔を何本、何十本、または何百何千本でもそのままの姿で並べ、供養するのであります。
またあるお寺では、潰したり再利用などせず祀ってあるのもありますが、これがまたなっていないのが多いのです。
それは何十本何百本の石塔を無惨にも横にしたり、逆さにしたり、その裏や表にも頓着なくこれを高く積み上げたりして、その上に例の三界萬霊碑を建てたものなどあります。
またあるところには、地蔵さんや観音さんやその他仏体の石塔に普通の石塔も混ぜ加えて、丸いのやら、四角いのやらの、段々を造りその上へセメント付けにしてあるのを見ます。またあるいはそれらの仏体や普通の石塔を半分は土中に埋め処理されたところもあります。
以上いずれもこれでは決して無縁の仏や無縁の墓に同情して真に供養すべく祀ったものではなく、邪魔だから片付けたと言うのに過ぎません。
全くこれでは無縁さんも救われないのみならず、あたかも刑にでも処せられたようなもので、生かして祀ったのではなくて、殺して曝したようなものであるから、無縁さんも喜ばないばかりか、こう残酷に扱われては浮かぶどころの沙汰ではなく、返って怨みはしないかと思われるのであります。これについての例は沢山ありますが、
先年地方のある寺へお墓を見に行ったことがありました。そこの墓所は本堂の後ろ山にあるので、坂を上ってゆかねばなりません。
その坂には、石の階段が幾段となくありました。
私が上がりかけて図らずも眼に入りましたのは、その階段は石塔であります。
私が驚きましたのは勿論、もったいない、こんなことをしていかにお寺さんでも障りがなくて済むでしょうかと申し、その石塔の階段を避けまして他の道から上りましたが、その時墓を見について来たものが十人ばかり居りまして、私の独り言を聞きましたものですから、こういうことをしても良いのですかと尋ねるものが居りました。
そこで私は申しました。無縁だからとてこう残酷に扱われては浮かばれないのみならず、どうかするとお寺さんに障りが出てきますよと、申したことがありました。
その後一行のうちの一人が、この話をその住職にされたそうです。そうすると住職の申しますのに、あれは無縁でもうお性根を抜いてあるからなんでもないと言われたそうですが、このお寺さん、これが気になったと見えまして、ここに戒名などが見えるからそんなことをいうのだろうとのことで、セメントでことごとくこれを塗りつぶしました。
そうこうするうちにそれからものの三十日と経たないうちに、二十数歳の、しかも秀才の譽高き相続人の一人子が変死されてしまいました。
その時、前に私と同行された一人の人が、他の人々にとうとう無縁様の咎めが出て来たと言われたそうです。
とにかくこの息子は住職以上に檀家の人望がありましたので、大変惜しまれたそうです。
その後一年も過ぎるとその住職も果てまして、跡は養子が来て法統を継ぐことになったそうです。
災地のことですから例の特設墓地でなくてはならないので、この寺などは東京でもかのコンクリートの墓所を造った一番先駆の方でありました。
この寺におけるその特設墓地の構造は、屋根のある堂棟造りのものでしたが、ようやく竣工したばかりのところへ私どもは、そのかたわらを通る道すがらこれを見まして、まだ東京でも珍しく、ことに私もその時初めて見たのですが、異なった構造ですから立ち寄って詳しく見ましたが、これがすなわち噂に聞いた特設墓地なのでありました。
今はもうあちこちに出来まして、皆さんもご承知でしょうからその説明は省きますが、その時私はしばらく去りかねてこれを熟視いたしました。このような墓が出来てその墓の持ち主は将来はたしてどうなるかと、考えておりました。
百戸でも二百戸でもの墓が、一繋ぎになったコンクリート造りで等級に区別され、一等級は四尺四方で何百円だとか、二等級は三尺四方で何ほどだとか、三等級は二尺四方で幾らだとか、あたかも汽車か劇場かの席の如くでありました。
やがて私の胸に浮かんで来たのは、人々名々の家の状態は、皆ことごとくそれぞれの因縁に依って生じてきたものですから、同じように見えても、まことに同じものではないわけで、従ってその墓のごときも名々家ごとに異ならなければなりません。
似たものはあっても、同じものはほとんどないわけなのに、この特設墓地は皆同じであります。 ところでこれはあのおそろしい大震火災で壊されたり、潰されたり、焼かれたりしたあとに、しかも物質上から見る文化だとか、文明だとかいわれる今日のこの世の中に生まれだしてきたのは、いかにも相応の産物であると思いましたが、しかし待てよ、これでは後がない。これは過去ばかりだ。
過去があれば必ず未来がなければならないのだが、この墓には現在がない。
ゆえに過去ばかりで後がないというわけで、その現在がないと言うのは、前にもしばしば申したとおり、墓は相続のものとして代々子孫が順々に建てねば続かないのに、これは一戸に一基を原則として考えられたものであるから、先祖代々であるとか、累代または何家の墓とするより他がないのであります。
これでは到底子孫が絶えてしまうと思い、なお去りかねてたたずみしまま考えておりました。
たちまちこの構造から連想して、近頃流行のアパートの建築が頭にひらめいて来ました。これだ、これだ。やっと結論に達しました。
それはこの特設墓地の墓主は、多くは後が絶えようがどうでもよく、もしたまたま続いたとしてもアパートの何号かの部屋住まいとなって、何町の何番地という一家に住む人ではなくなるだろうと思うに至りました。
すこしお話がそれましたが、特設墓地の感慨に移りました。ようやくそこを去りまして他を顧みますと、そこではお石塔を破壊して砕いております。聞けばそれがコンクリートの材料として使われるのであるとのことでしたから、同行の人に申しました。
これでは檀家の将来より先にひょっとするとここの住職が何とかならねば良いがと、話をしました。
それから半年の経たぬうち、その住職は四十数歳の働き盛りであるのに、急死されてしまったとのことで、寺では後の事業を頓挫して困っているとのことを後で聞き及び誠に気の毒のことと思いました。
お墓を粗末に扱った在家の人は勿論、お寺さんでもその外石工などの類にいたるまで、終わりをよくしなかった例や特設墓地の築造以来、その寺々の住職で変になったものの数もずいぶん少なくはありません。
今一々さらにその例を挙げますことは省きまして、ご参考までに私の営みつつある修理の概略を述べますと、その無縁墓を集めまして台石を使って祭壇を築きます。
その祭壇は地形によりまして種々にいたしますが、それが平地なら四方正面の雛壇式にするとか、山に沿うとか、丘によるところならば一方面の雛壇式にするとかいたし、その段の数や広狭は祀る石塔の数によって幾段にもいたし、また広くも狭くもいたし、その祭壇ができましたらこれに随喜の善男善女集めまして、祀るところの石塔をことごとく苔を拭い、きれいに洗いましてその大小長短を見計らい、見る眼にも多少感じのいいように段の上へあたかもお雛様を並べたように並べてお祀りします。
またその祭壇の築造は別ですが、お石塔を並べるのに決してセメントを用いません。
その霊が自由に遊行できるようにそっと飾り立てますのであります。
この無縁になった仏にも種々、様々ありましょうが、ここにおいてそれがことごとく一連托生、平等に、大切に、懇ろに扱われまして供養されるのでありますから、喜びもいたしましょう。
浮かばれもいたしましょう。これを造りました所、また出来ましたお寺、なおまた発願随喜の人々に吉事祥事を示されるのでこれが窺われるのであります。
墓相のことは支那には早く三四千年の昔、宅托を占うとのことより起こりましたので、すなわち秦に朱仙記、漢には青烏の実経、晋には郭璞の図経、陶侃の捉脈賦などありまして、その後地理の書など枚挙に暇がないほどでありますが、多くは方術家の異説にして、聖賢の旨に背くものも少なからずあるとかの事であります。
殷人の墓誌に、右に林、左に泉、後ろには岡、前には道などとあるのを見ますと、支那には最も古くより行われたとものと見えます。今も支那においては死人があることに方位を選んであちらに埋め、こちらに葬るとの習慣があります。
本邦においては聖徳太子が河内の科長の墓を造営の折、ここを断て、あそこを切れと、その子孫を欲しないと図られましたことは、太子伝や徒然草にも見えます。また吾妻鏡脱漏には鎌倉の右大将頼朝の墓のことについての記述が有り、親の墓が高い所にあり、その下に住まいすればその子孫が必ず絶えるとあります。鎌倉にあるその頼朝の墓は、今は多くの個人邸宅が建て並んでおりますが、昔鎌倉幕府のあった所のすぐ後ろの丘上にたしか石の五層塔であったと記憶しております。その附近に大江廣元の墓や、島津家祖先の墓なども在ったように覚えております。わが国中古には山陵、墳墓の制度があり、葬儀を記録した書物のうちには葬法密または葬送式などがあります。
墓相を論じ、昭穆の序を正すは吉凶軍賓嘉の五禮の一つにして、治術の要道などと申し、孝経にはその宅兆を卜して安措すといえ、禮記には天子の墳は高さ三稚、松を植え、諸侯は天 子の半ばにして柏を植え、大夫は八尺、柳を植え、士は四尺、楡を植え、周禮に家人、墓大夫などとともに墓地を掌り図を造りて兆域を弁ずなどとあります。その後大墓を起こすこと 盛んに行われて、燕の昭王、秦の始皇などが大陵の類多いのであります。
呂氏春秋に大墓は、富を示さんには可ならんも、死を葬るには如何か、必ずこれを発掘するものあるにいたるは、哀しき業なるよしを論じられました。しかし、死生禮重し、墨子が薄葬の説は禮にあらざるよしを、荀子は論ずるに至りました。孝行の子、必ずやおろそかに思うべからずなどといえる。
このように支那及びわが国におきましても、墓相のことは古くより言い伝えられ、またこれが行われたこともありますが、それはいずれも墓所に関する地相の選択と、またその方位方角に関するものであり、今日なお支那においては、これに関する書籍は少なからず有り、私の調べたところを挙げればおおむね下記のようであり、その他私の知らないものは如何ほどあるかはかりしれません。
堪輿の術、風水の学と称しこれに関する諸家の解説もまた多数ありますが、これらの書籍はいずれも字句難解の漢書であるため、よほど漢籍に造詣が深いものでなければ、これを読んでもその内容を理解できることは容易ではありません。
わが国文政の頃に高田松屋という学者がおり、墓相或問、または図式とか、あるいはまたその門下が筆記したものをまとめ、墓相小言という小冊子を刊行されました。
その説の骨子はやはり支那の堪輿風水の学を伝えることが多いのみならず、多くは口伝などと称し肝心の点をのべていないのは、読者が遺憾に思うことが多いと思います。
さて私の調査研究したものはこれとは異なります。すなわち、石碑石塔に限定して全国と申しましても、九州及び中国の一部、近畿、北陸、東北地方、それに関東は勿論、東山及び東海道の各地、これに四国の一部と北海道の一円に亘りまして見た墓を資料としてこれを統計的に調べ、学問的に研究して得た結論がすなわち私の墓相です。
その吉凶善悪及びその他の諸相についての概略は、これまで述べてきましたから、皆さんはほぼご承知くださったことと信じますのでその部分は重ねて申しません。
しかし漏れたところと、石碑石塔の調査研究に伴い、地相や方位の関係で多少うかがい知ったこともありますので、これよりそれを述べることにいたします。
この土地、どこの墓所に行きましても奇人という人がいるように、墓にも奇物が少なくありません。
たとえば菰冠りの酒樽を模した石碑に石の徳利の花立、同じく石の盃の水鉢を添えたもの、あるいは猫足の膳に模した台石に徳利の棹石を置き、これに盃の形の石をかぶせたもの、あるいはまた、ビール瓶のを模した棹石、あるいはまた、碁盤を模した台石に碁笥に模した一対の石を左右に置き、四角や丸い形の棹石を建てた物、あるいは将棋盤に似せた台石に駒の形の棹石といったものなどがあります。
将棋の墓といえば、わが国将棋の名家、すなわち大橋宗桂の家の墓は、芝二本榎の上行寺という、かの元禄に名高き俳諧師、宝井其角の墓のあるところで、日蓮宗のお寺でありますが、其の大橋家の墓所には流石将棋の名家なのか、どれも将棋の駒の形の墓ばかり五基あります。宗桂の墓石の背面には桂馬と彫られてあり、そのほかのものには金、銀、香車などの文字が彫刻されており、中に最も振るった戒名のもがあります。それは宗桂院一定即日と(成り金)居士というので、宗桂の養子か孫か分からぬが即日成金居士というその成金は、将棋の駒の歩の裏の文字、すなわち「と」と言う字でありまして随分振るったものでありました。
その他、鉄砲の弾を模した石に石の鉄砲を建てたもの、その他あれやこれや枚挙に暇がないほど様々な奇形のお墓を造る人があります。銃猟が好きだったから鉄砲、碁盤や将棋の駒や酒樽など、それぞれの亡者が在世の時に好んで嗜んだからといってこれを墓にまでするに至ったのでしょうが、これら奇形の墓はことごとく跡がない、必ず子孫が絶えますから最も注意を要します。
霊知霊感ともいうべきものがしばしばありますので、その一例をお話いたします。
先年北海道へ行きまして、札幌附近の墓地をあちこち見まして旅館に戻り、同夜多数集まった同地の人々に墓の話をいたしました。
その折、今日どこそこでこういう墓を見ましたが、その人は随分すごい人であったように思いますが、どなたかあの墓の主人を知った方は有りませんかと尋ねましたら、知っております、知っておりますと言う人がありまして、その人が言うには、あの人はお尋ねの通りすごい人でありました。しかし何でも何か思惑が外れ大損をし、銀行に何万円かの借金が出来たがそれを返済することが出来なくなり、鉄砲で自殺されたとのことでした。
あの人はそういうことで鉄砲で死んだか知りませんが、そうではなく、私の感じたところでは、あのお墓の主人は確かに人を斬ったことがあるに相違ない。どなたか皆さんの中にそれを知っているかたがありませんかと再び尋ねましたら、一人の老人が大変驚いて申すに、どうも驚かずにはおられません。
お墓を見てあの人が人を斬ったことが分かるとは、実に不思議を禁じえません。
あの人は、私と同じ奥州白石藩のものでして、維新後藩中ほとんど悉くこの札幌附近に移り住んだのでありますが、まだ藩の時代、國にあってあの人も二十歳そこそこの若盛りの折、藩では午後の六時以後城外に出ることは禁じてありましたので、若い者などは城外に遊びに出る時などはいずれも覆面をして出たそうです。ある時城下近くの村落に縁日で人出の多い盛り場がありましたが、その盛り場で人殺しがありました。城下と申しましても奥州の田舎のこと、随分大騒ぎとなりましたが、その犯人が終にわからないで終わったことがありました。
しかしその後藩中悉く北海道へ移住しまして年数もよほど経ってのこと、何かその土地に祝い事があって人の集まった時にいろいろ昔話が出ました際、あの人が昔、国元白石城外の盛り場の人殺しは自分であったと語られたそうですが、それがお墓で分かるとは、真に驚かずにはいられませんと、語られました。
その墓は高さ四尺ばかり、幅三尺四方ぐらい、切石を積み上げた台石の上に四五尺ほどの自然石の石碑でありました。
それから地相の関係を述べますと、日陰の土地及び崖地、または窪地などに建てられた墓のある家は、振るわないで終わるようです。また墓の背面が低き土地になって居るのもその家は発展せず、栄えないで段々と枯れていく家が多いようです。
もちろん墓所の整理と言うことは必要なことでありますから、石塔の処理と言うことは当然です。
そこでこれを動かすのはよろしいが、それを潰したり、再利用などはしないで、同様な無縁墓を一ヶ所に集め祭壇を造り、これにその石塔を何本、何十本、または何百何千本でもそのままの姿で並べ、供養するのであります。
物には総て善悪の相があり、善相は良く、悪相は悪しきことはいうまでもないが、荀子は形を相することは心を論じるにしかずと申しました。その心みな形に従えば、相なきにしかずですが、人相、家相、骨相をはじめ万物ことごとく善悪の相をそなえざるはないが、つとめて好相を選ぶべきは、勿論であるが、なかでも先祖墳墓の地をおろそかにすれば、衆善ことごとくこれがために掩われて禍を受け、これをよく祀れば衆悪ことごとく消滅して幸福を受けますれば、この墓相は百相の本であるというのもまた可なりと存じます。
昔の本に、墓相悪しき家は重病悪疾の患いあり、淫乱放佚の乱あり、争訟刑戮の難あり、貧賎災厄の苦あり、子孫断絶の悲しみあり、水難盗難の禍あり、悪子不臣の憂いあり、神仏に祈り、巫医をやといて百計すれどもその験(しるし)なきは、多くは先祖の墳墓の悪しきによれり、以ってこれを治むれば必ず応(しるし)あるべしなどとあります。
墓所は父祖精霊の居所であるから不浄を忌みまして、よく垢埃を払い、香木または香花などを植えて綺麗にし、時々その墓を洗い清めて清浄にして祀ることが、最も肝要なことであります。
父祖霊魂の居所を穢し荒らす時は、子孫がその祟り蒙り、難苦または子孫断絶するに至るので最も注意が必要であります。
真に長い時間ご清聴を汚しました、のみならず実例として度々くどいお話を申しましたが、これでも腹稿の何分の一しか申しておりませんが、多少なりともご参考になりますれば幸せに存じます。なお分かりかねた点や洩れたところもございましょうが、それはまた他日機会がございましたらこれを補うことといたしまして、今日はこれをもってお別れといたします。
写真欄に掲げた模範的な墓は、本邦屈指の某富豪家のものにして、 京都の某寺にあるその旧墓所の一部分を示したに過ぎないが、 その模範的として著者の称揚措かざるゆえんのものは、 同家中興の祖すなわち同家の基礎を為して、今を去ること二百三十七年の昔、 元禄七年に没せられたその人以来同家は、京都に六家、東京に五家、いずれも富かつ栄えて一家一門、今や十一家の多きに至れるが、その中興の祖以来代々順々に各家とも祖先に習い写真に示すとおりほとんど同型の墓石を建立している。
もっとも多数ある中に一二基異型のものも全くないとはいえないが、その異なる点をいえば、祖先この方多くの石碑は棹石の頭にあたかも市女笠のような笠があるのに対し、屋形のような笠を戴いた形ぐらいのことで、あえてその差異を挙げることもなく、そのへんにある幾多の成金の輩のように一基の石碑に数万円を投ずるような浮華この上なき石碑を建てるものとは異なり、その大きさも極めて大きなものではなく、しかも質素で堅実なものを建立せられ、決して時流を追うことなく今日に至っており、実にまれに見る家風の奥ゆかしさ、ことごとく敬称しないわけにはいきません。
この東京におけるその一門の墓所は、元本所の某寺院内にありましたが、 先年野方のほうに数千坪の土地をもとめてそこに移し、そこには位牌堂を設け、 礼拝供養はもちろん、一門の仏事法要を営むのに差支えがない設備を有する建築物があります。
そしてその墓所はすなわち東京における五家の墓地で、各百坪ほど別々に生垣をめぐらし、 別に遥拝所として京都における宗家の祖、ならびに他の五分家の祖に当たる石塔を 一基づつ京都そのままのものを建て、なおさらに遠祖の墓として五輪塔三基を建てて祀られたことは、 その行き届いた祭祀の方法よろしきには只々敬服するほかはありません。